生きていくのは難しい

ここ最近なりを潜めていた希死の念慮さんが、今日は時々ふっと頭をかすめています

かすめるだけでまだよかったねえ、、、

 

生きていくのは難しい

生きていていいんだという実感を持ちながら生きることはもっと難しい

生きなければと思って生きることならまだ手が届く

生きていて充実してるとか、人生に納得してるとか、多幸感をもってるとかそんなのは無理です、無理(極端!)

そんなことばかり期待してしまう。

 

生き続けるって、ぐらぐら揺れる吊り橋を渡るようなもの。

現実の吊り橋はめったなことでは壊れないけれど、生き続けるという吊り橋はわりと壊れる

 

人生マンネリ、どこか右肩下がり、恥の上塗りだけれど、それでも「生きていてマシだった」と思える瞬間とか、そう思わせてくれる物事はあって、そういうことに支えられて生きています

 

 

辛いときに辛いと言えていますか

辛いときに「大丈夫だからどうか心配しないで」なんて言っていないですか

辛いときには辛いと言っていい。

辛い、しんどい、もう疲れた。

あなたがそれを言っても誰も害することはない。

うーん、大事な人にはそう言えるんだけどな、自分には許可を出せないのです。

かつて大事な人に辛い辛いと言いまくって関係を壊したことが多々あるので………

 

「今日は辛い日です」

その言葉を職場で飲み込みました

頭の中の妄想、上司にそう言うと「じゃあ帰る?」「どうしたい?」って言われそうって思ってしまって

違うんだ〜「あーそうなのか、OK把握、お疲れさん。今日は帰ったらよう寝てくれ」でいいんだ。知っておいてほしいだけ、気持ち「駆里さんは今日辛いけど仕事してんだなあ」と思われたい承認欲求

 

別に一人になりたいわけじゃないから同僚とご飯食べて、同僚が楽しそうに話すので自動的に反応するサービス精神くっちゃべりを発揮して、「でも"今日はしんどい日です"っていう一言だけ聞いてほしいんだよなあ」としょんぼりして

楽しい空気を壊したいわけじゃないし、一人敢えてムスッとしてアピールしても全然気分はよくないだろうし

同僚が「今日は目眩がひどいので帰ります」と言っているのを見て、「俺もそこまでではないけど調子悪いんだけどな…誰かに知ってほしいなぁ…」と思ってしまう卑屈さ

こうして周囲から「特に普通だった」と思われたまま、家路につくのです…

体調が悪いのに元気そうに見られる

 

明日仕事サボりてぇ〜〜

ふざけんな、なんでよりにもよってサボりたくなるのが3連休前の金曜なんだ、せめて火曜か水曜にしてくれ〜〜

せめてノーメイクで仕事行かせてくれませんかね、ダメですかそうですか……

 

とりとめのない愚痴や弱音になりましたがここで終わります

手帳書くのをサボってブログに逃避するおれ……

エッセイは自由だ

エッセイの意見交換会に行ってきました

 

エッセイストと話す機会がなかなかなかったので面白かった

会はめちゃんこ楽しかったし勉強になったのですが、

一つ思ったことがあって。

 

それぞれ「エッセイとはこういうものである」という考え方があるんだなと。

それと違うものに対して「エッセイはこう書くべきだ」ってやっちゃうとずれるよなあと。

 

結構実感したのは、エッセイ=リアリティー小説、ノンフィクション物語だと解釈している層が一定数いるということです

事実か架空の脚本かが違うだけで、小説と同じように出来事の描写の細かさとかを求めている。

こういう人は事実の描写を相当重視しています。

 

バランスが取れているのは、事実の描写:自分が考え感じたこと=5:5or6:4くらいのタイプ。

こういう作品は読みやすく共感しやすい。

 

私みたいな極端なのは、事実の描写:考察=2:8or1:9とかなんですよね。

リアリティー小説とかノンフィクション物語とかを求めている人がこういうのを読むと、「もっと実際にあった出来事を書いてくれない?」になってしまう。

でもこれも1つのエッセイの形なんですよね。

あなたの知ってるエッセイとは違うだけ。

 

そりゃあ具体例を効果的に使った方が読者が話に入りやすい。

それはそうなんだけど、その作品の特徴と美点を理解せずに「こうした方がいいよ」と言ってしまうと、単なる作風の否定になってしまいます。

ラーメン作っている人に「アイスみたいにもっと牛乳と砂糖入れて甘くした方がいいんじゃない?」みたいな。

 

なので、作品の批評をするときは「筆者が読者に提供したかったものは何か」をまず考えて尊重するのが大事だと反省しました。

そこをすっ飛ばして「私の読みたいものと違うからこうした方がいい」という助言はしない方がいい。

言うとしても「私はこういうのが読みたい」に留めておくのがいいかもしれませんね。

 

 

落ち着いたら改めて皆様のかかれた作品を読みましょうか。

全員分は読めてなくて、口頭であらすじを聞いただけですが面白そうだったので……

何かをやっているとどーしても大恥をかく瞬間があるなあ、と思っています

ライブの曲の最後のピアノソロを誰が見ても分かるくらいボロッボロにミスったりとか

ダンスサークルで有料の大きい舞台のアンコールで全員で動きを合わせるところを一人だけ盛大にタイミングを間違えたりとか

英語ディベートの大会のスピーチでどーーーしても「性交する」の英語が出てこなくてFワードを使ってしまったりとか

他人様の動画のインタビューで出させてもらってしどろもどろで答えたらコメントで話し方をめちゃくちゃディスられて低評価つきまくったりとか

(悲しいかな全部実話なんですね、私も何かの間違いだったらよかったのにと思います......)

 

恥ずかしいのもきついし人様に迷惑をかけるのも追加マシマシできついですね

いっそ俺を殺してくれ......頼む......という気持ちになります

「それはさすがにあなたの詰めが甘すぎるのでは?」と言われてしまったらもうぐうの音も出ません......

 

そしてこのブログの文章も、下手したら私の作品内の気合入れて書いた文章も、客観的に見れば恥ずかしいのかもしれません......

そこまで弱気になっているのは、今日まさに大恥をかいたからです

恥ずかしいのと人様にご迷惑をおかけしているので具体的に何をやらかしたのかは言えず......時効が来たら話すかもしれません......関係者の皆様、本当に大変申し訳なく......

 

見えなくなるより笑われていたいな

見えなくなるより笑われていたいな(日記 2023/04/27)|点滅社 (note.com)

 

点滅社さんのこの言葉が好きです

見えなくなるより笑われていよう

虚しい強がりでも恥を繕うための醜い無様な言い訳でもそう思っていよう

 

明日は作品の意見交換会に参加してきます

急に話が決まったので2日で原稿を書きました

明日も生き恥をかいているかもしれない......

根がどうしようもないやつなので恥の多い人生を送っている

ガンバレ私

 

 

追伸:

最近Domandaに使う表紙の紙を特厚口に変えました。

これで表紙ペロリン問題は多少マシになるはず

みんなは販売用のZINEの表紙を刷るときは普通のぺらっぺらのコピー用紙に一面カラーで刷るのは止めような......

仕事を探せない

気持ちがひたすらに落ち込んでいます

 

抗うつ薬が減ったこととか、6月であることとか、理由は色々ありますが、

一番は、現職はつなぎのお仕事なので次の就職先を探していて、「めちゃくちゃ自己分析頑張ったのに、仕事探すためのキーワードが何一つ見つからなかった」というところにあります

 

なってみたい職業は見つかるんですよ、

キャリコンとか、エッセイを書くお仕事とか。

でも、スキルがなくて稼げないから/スキルを学んだり資格を取ったりするための教育資金がないから今は無理だよね、お金を稼ぐために何するか考えましょうや、ってなると何も思いつかない。

 

あるいは、仕事にならなくていいことなら見つかるんです。

当事者研究で発言するのは一番私が活躍できる形だろうし、ZINEを作るのも私の強みにすごく合っています。

でもそれでおまんまは食えません。

(1対多の話し合いが得意ならワークショップ開いてファシリテーションやれば?という意見が出そうですが、私はファシリより自分が積極的に発言する方が力を発揮できるのです。というか未経験でファシリで仕事できる未来があんまり見えない…)

 

  • 残業少ない
  • 去年の支出額から逆算して生活費を賄える収入
  • 未経験、1年以上の職歴なし、フルタイムの職歴なし
  • 苦手で辛いことを引き受けなくていい

という条件で、

自分の得意なことを活かせる仕事がまっっったく思い浮かばず…

事務なのか営業なのか企画なのか広報なのかetc.なのかすら絞り込めない状況です

合ってる業界も全く思いつきません…

人にアドバイスを求めても、具体的な業界や職業の名前が出てこないか、それはちょっと違うかも…というのが返ってきます。相談に乗ってもらえるのはとてもありがたいんですけどね!

(例えば、教えるのが得意なら塾講師とかどうか?と言われましたが、塾業界はけっこう激務みたいです)

 

「今の仕事が合ってるんだったら、単純作業多め臨機応変少なめ来客対応少なめの事務仕事やって、余暇時間でやりたいことをやれば?」という案もあって、それも悪くない…とは思うのですが、せっかくなら得意を伸ばせる仕事に就きたい。苦手でもないけど得意でもない仕事に従事するなら、同じ時間で得意なことやってスキルをつけた方が有意義では…と思ってしまうのです。わがままな悩みかもしれません。(苦手じゃないけど得意でもないことをするのが嫌なんじゃなくて、得意なことを活かせる時間がなく苦手じゃないけど得意でもないことばかりするのが嫌)

苦手なことをするのは絶対嫌なのかって?苦手なことに多くの時間を割かなければいけない仕事を選ぶのは精神的に辛いし伸びないし周囲から評価されないしで悪手だと思っています。

 

自力で仕事を探そうにも、検索ワードがないなら探しようがない。

もう、条件と履歴書、職務経歴書、配慮事項、自分の強み一覧だけ渡して、転職エージェントに丸投げしたい…

けど、転職本で読んだ話、エージェントに丸投げマンはたくさんの案件を抱えているエージェント的にはやる気出ないそうなので、今の状態ではとてもエージェントに相談できません。エージェントに相談する段階で、こちらから検討している企業例を提示できる。エージェントのやる気を引き出すにはそれくらいの熱意を見せる必要がある。仕事探すのができないからエージェントに相談したいのに!(泣)

 

というか、「企業勤めに向いていないのでは」と人に言われました。私だってできるんだったらフリーランスがわりと自分に合ってると思ってるよ!フリーランスエアプだから分かんないけど!(泣)

(フリーランスやる上で生じる雑務の中で自分の苦手なことを他の人に依頼できるほどの稼ぎがあるならさほど問題ないけど、そうでないなら経営を全部自分でやらなければいけないのはフリーランスの難点ではある。あとフリーランスは食っていくのが本当に大変なんだろうなと、何かのサイトの体験談だったっけ?で仕事の単価の安さを見て思いました。企業勤めだろうがフリーランスだろうがしょっぱい…)

 

日中は稼ぐための仕事をやって、余暇時間でやりたいことをやるという選択も悪くはないけれど。

主たる生計を立てるための仕事をやりたいこと、少なくとも得意なことにする道も模索したかった。

でも、これだけ方向性が見えないと、

「もういいよ適当に事務職で自分に合うとこ探したらいいよ」

って投げやりな気持ちになってきています。

人生はしんどいし労働は過酷。

希望はここにはないが、どこかにはある

 私の利用している相談機関で、知人である利用者が、生存権を踏み躙られるような対応をされた。複数のハラスメントが起こった。支援者はその利用者に落ち度があるかのように説き伏せた。

 

 支援機関の対応に憤怒した私は、一連の問題に抗議し再発防止を求める意見書を、支援機関の代表とベテランのスタッフの2名に宛てて提出した。その後数ヶ月経つが、意見書に対する応答はなされていない。彼らは問題を見過ごしたのだ。

 

 この問題に対して沈黙や静観を決め込んでいたのは、いい年した中年の大人たちや、私より1世代上くらいの大人である。

 

 私が意見書の宛先として選んだベテランのスタッフには、私と私的な交流があった。当事者研究を通じて親交があり、かなり深い悩みを打ち明ける相手だった。拙著「Domanda」の制作にも携わっており、というか私にZINEを書くように勧めたのがこのスタッフである。このスタッフ無しには、私はZINEを作ることがなかっただろう。

 

 意見書を出してすぐ、このスタッフから「私はとても葛藤していて、意見書に即応することができない」と連絡がきた。「時間をかけて応答を考える」という意味だと思っていた。しかしいくら時間が経とうと返事は来ない。「意見書に対する応答はなさらないおつもりでしょうか。沈黙は肯定とみなします」とLINEした。そのスタッフが選んだのは沈黙だった。

 

 さんざん人生の先輩面でご高説を垂れてきたくせに、自分に都合が悪くなったらだんまりですか。

 今後この件で私に蔑まれて、私との関係が切れても「大丈夫」なわけですか。

 

 

 アニメ「少女革命ウテナ」が示していたように、悪い大人は嘘をつく。

 君にさも親切で理解があり誠実であるふりをして、一番肝心なところで君を裏切る。

 信じていたものは私を裏切った。

 私には世界を革命する力はなかった。私は非力だった。

 

 

 「エルピス」というドラマが好きだ。

 キャスターの浅川とディレクターの岸本が、ある殺人事件の冤罪を晴らすために奮闘する。

 2人は逆境の中様々な味方を得るが、冤罪事件を扱う2人をあるいは疎ましく思い、あるいは波風を立てないことを良しとする人間たちから妨害を受ける。

 

 その中で特に印象に残っているのが、岸本とかつて同じ番組でチーフプロデューサーをしていた村井のシーンだ。

 冤罪事件の核となる情報提供者(副総理の側近)を岸本に紹介した村井だったが、真実が明るみになることを恐れた副総理の命によって情報提供者は殺され、口を塞がれてしまう。

 事態に激昂し、権力という名の悪から目を背けて報道を続けるマスコミに憤慨した村井は、浅川がキャスターを務める花形のニュース番組のスタジオで物を振り回し、スタジオを破壊して大声で喚き散らす。

 

 村井はお世辞にもできた人間ではない。番組の出演者にはセクハラをするのが日常茶飯事、そういう人間である。しかしこのときだけは、許しがたい不正に対して猛然たる怒りをあらわにする。

 暴力は何も生まない。暴れても問題は解決せず、周囲を傷つけ、自分が追い込まれていくだけである。

 しかし、批判を恐れずに言うと、とても看過し難い不正が行われていながら何事もなかったように不干渉を決め込む人間たちよりも、不正に憤り暴れ回った村井の方が、ずっとマシだと思う。私は暴力を肯定しないけれど、度し難い横暴とか蹂躙といったものを前にして「何もしない」ということは、時として幼稚な暴力以上に醜悪であり得る。

 

 私はこのところ、不正に対して関わった大人たちがしらを切っていることを思う度、村井さんが怒っているところが脳裏に浮かぶ。

 どうして黙っているんだ。どうして何もしないんだ。とても大切なものが踏み躙られているのに。

 

 

 具体的なセリフまでは覚えていないが、エルピスの最終話で「希望とは誰かを信じられること」というメッセージが示唆される。浅川は岸本や村井がいたからこそ、絶望から立ち直り最後まで闘うことができた。岸本も浅川がいたから闘えた。

 

 この件で私に「信じられる誰か」はいなかった。希望は絶望に負けた。

 きっと何かが変わると楽観視なんてしてなかったよ。どうせ何も変わらないと思っていたよ。でも変わってほしかったよ。

 

 

 希望なんてなかった。人々は不正に立ち向かわず、善なるものを支持しなかった。それでも、そうだとしても、どこかに希望があると私は信じている。信じられないことばかり起こるこの世界で、善なる行動を、踏み躙られている人を守るための行動を起こす人が必ずいると信じている。希望はここにはないが、どこかにはある。

今どこで何してんの

思い出すのは、仲良しだった女の子たちではなく、

当時好きだった男の子でもない。

 

あるクラスの男の子がいた。

高校に入学したてのときはいろんな子と話して、

当時私はそれなりに成績が良かったので、

その男の子はそのことについて私に話しかけてくれた覚えがある。

 

夏休みを終えて私は不登校になった。

学校に戻ってきてからも、私は勉強がしんどかったり、

人間関係でトラブルを起こしたりしていた。

そんなとき、その男の子から声をかけられた。

「生きてるか」

「...死んでる」

「生きてるなら大丈夫だ」

抜け出せない嵐の中で、
ぶっきらぼうに声をかけてくれて、

私の辛さを感じ取ってくれたことが嬉しかった。

 

彼はクラスで嫌われていたらしい。

「プライドが高い」などと言われていたが、

どうして嫌われていたのか私には全く分からない。

 

私は文系、彼は理系だったので、

2年以降クラスが分かれてしまい、
接点がなくなってしまった。

 

同窓会に来そうにない人ほど、

会いたくなってしまう。

彼は1年生の3月の打ち上げにも来なかったから、

きっと同窓会には来ない。

 

今どこで何をしているのかな。

10年経った今、もう一度話してお礼が言いたいな。

学生のときにもっと話しておくべきだったかもしれないけど、

1年のときのあのクラスで、きっとそれはお互いにとって難しかっただろう。

私の辛さを感じ取ったのは、

あなた自身が孤独やしんどさを経験していたからなのかな

 

もう会えない人に、会いたいと渇望する。

今は耐え忍ぶ時

のっぴきならない事情で精神科の主治医がしばらく診察できなくなりました。

 

なので代わりの先生に診察してもらっています。

が、この先生がちょっと嫌な感じ…

こちらの悩みを話しても薬の話しかしなくて、

その薬の話も、「こういう理由でこういう処方はいかがですか?」と処方の根拠を話して提案するんじゃなくて、

「薬変えますか?」

「こういうときっていつもうつの処方減らしたりしてます?」

と、こっちに丸投げ……

なにより、人格の感じられない無機質な雰囲気が、冷たさを感じて感じが悪いです。

 

転院する前の主治医も受け身で処方してたなあ。

うつがひどくなりました→じゃあ抗うつ薬増やしましょうか

ADHDの薬が飲みたいです→じゃあ処方しますね

みたいな。

今の主治医は、

うつがひどくなりました→あなたの場合薬を増やすともっと頑張っちゃうから薬は増やさないでおこう

だし、

発達障害のある人のうつの場合、まず発達障害という地盤の方に対処してあげる必要がある」

と根拠を持って自分からADHDの薬の提案をしてくれたもんなあ。

 

睡眠時間に支障が出るレベルの躁が出ていて、後でうつが来ないか不安な身としては、代理の先生のこの対応はきつい。

まあ、腕のある医師はそもそも自分のクリニックを持つか大きい病院で常勤するでしょうから、

どうしても微妙な医師が来てしまうんでしょうね…

 

なんで薬の話しかしない精神科の医師が良くないかというと、

「患者が健康的に生きる」という本質的な目標ではなく、

「薬を処方する」という部分的な役割にしか責任を負わないからですね。

薬だけで心の病は治らないんです。生活改善とか、心の悩みの解消とか、治療意欲の維持とか、自分の病気に対する理解とか、環境調整とか、生活や経済的な困りごとへの対処とか、そういうことに一つ一つ対処していった先に健康的な生活というものがある。

そういうことに無関心でいれば、健康的な生活という総体的な目標への道筋を把握せず見失う。

「今この人には何が必要で、自分は何をする必要があり、何のサービスを提案する必要があり、どんな声かけが適切なのか」が分からなくなるんです。

前々から言っていますが、だから患者の人生に興味がない精神科の医者はヤバい。

「患者が健康的に生きる」という目標そのものに対する責任を医師が知ーらんぴって投げ出してしまったら、

投げ出した責任を病に苦しむ患者が全て引き受けなければならない。

自分で健康的問題に対処できないから病院に行くんじゃないですか、病院が患者を健康にする責任を引き受けなかったらなんのための病院なんですか。

(このあたりのことは拙著Domanda Vol. 1「メンタルヘルスと支援」にも書きました)

 

代理の先生が嫌すぎて診察頻度減らしたい…と思ったけど、

カウンセリングがなくなるのはなあ。

(あっでも、カウンセリングだけ受けることもできたりするのかな?あの先生にその打診をするのもしんどいけど…)

主治医の先生が戻ってくるまで耐え忍ぶ時。

こういうときこそ、先生の指示に甘えてないで(※基本的に先生の指示をよく聞くのはいいことですよ!)自分で自分の問題に対処する工夫が試されているのかもしれませんね。