希望はここにはないが、どこかにはある
私の利用している相談機関で、知人である利用者が、生存権を踏み躙られるような対応をされた。複数のハラスメントが起こった。支援者はその利用者に落ち度があるかのように説き伏せた。
支援機関の対応に憤怒した私は、一連の問題に抗議し再発防止を求める意見書を、支援機関の代表とベテランのスタッフの2名に宛てて提出した。その後数ヶ月経つが、意見書に対する応答はなされていない。彼らは問題を見過ごしたのだ。
この問題に対して沈黙や静観を決め込んでいたのは、いい年した中年の大人たちや、私より1世代上くらいの大人である。
私が意見書の宛先として選んだベテランのスタッフには、私と私的な交流があった。当事者研究を通じて親交があり、かなり深い悩みを打ち明ける相手だった。拙著「Domanda」の制作にも携わっており、というか私にZINEを書くように勧めたのがこのスタッフである。このスタッフ無しには、私はZINEを作ることがなかっただろう。
意見書を出してすぐ、このスタッフから「私はとても葛藤していて、意見書に即応することができない」と連絡がきた。「時間をかけて応答を考える」という意味だと思っていた。しかしいくら時間が経とうと返事は来ない。「意見書に対する応答はなさらないおつもりでしょうか。沈黙は肯定とみなします」とLINEした。そのスタッフが選んだのは沈黙だった。
さんざん人生の先輩面でご高説を垂れてきたくせに、自分に都合が悪くなったらだんまりですか。
今後この件で私に蔑まれて、私との関係が切れても「大丈夫」なわけですか。
アニメ「少女革命ウテナ」が示していたように、悪い大人は嘘をつく。
君にさも親切で理解があり誠実であるふりをして、一番肝心なところで君を裏切る。
信じていたものは私を裏切った。
私には世界を革命する力はなかった。私は非力だった。
「エルピス」というドラマが好きだ。
キャスターの浅川とディレクターの岸本が、ある殺人事件の冤罪を晴らすために奮闘する。
2人は逆境の中様々な味方を得るが、冤罪事件を扱う2人をあるいは疎ましく思い、あるいは波風を立てないことを良しとする人間たちから妨害を受ける。
その中で特に印象に残っているのが、岸本とかつて同じ番組でチーフプロデューサーをしていた村井のシーンだ。
冤罪事件の核となる情報提供者(副総理の側近)を岸本に紹介した村井だったが、真実が明るみになることを恐れた副総理の命によって情報提供者は殺され、口を塞がれてしまう。
事態に激昂し、権力という名の悪から目を背けて報道を続けるマスコミに憤慨した村井は、浅川がキャスターを務める花形のニュース番組のスタジオで物を振り回し、スタジオを破壊して大声で喚き散らす。
村井はお世辞にもできた人間ではない。番組の出演者にはセクハラをするのが日常茶飯事、そういう人間である。しかしこのときだけは、許しがたい不正に対して猛然たる怒りをあらわにする。
暴力は何も生まない。暴れても問題は解決せず、周囲を傷つけ、自分が追い込まれていくだけである。
しかし、批判を恐れずに言うと、とても看過し難い不正が行われていながら何事もなかったように不干渉を決め込む人間たちよりも、不正に憤り暴れ回った村井の方が、ずっとマシだと思う。私は暴力を肯定しないけれど、度し難い横暴とか蹂躙といったものを前にして「何もしない」ということは、時として幼稚な暴力以上に醜悪であり得る。
私はこのところ、不正に対して関わった大人たちがしらを切っていることを思う度、村井さんが怒っているところが脳裏に浮かぶ。
どうして黙っているんだ。どうして何もしないんだ。とても大切なものが踏み躙られているのに。
具体的なセリフまでは覚えていないが、エルピスの最終話で「希望とは誰かを信じられること」というメッセージが示唆される。浅川は岸本や村井がいたからこそ、絶望から立ち直り最後まで闘うことができた。岸本も浅川がいたから闘えた。
この件で私に「信じられる誰か」はいなかった。希望は絶望に負けた。
きっと何かが変わると楽観視なんてしてなかったよ。どうせ何も変わらないと思っていたよ。でも変わってほしかったよ。
希望なんてなかった。人々は不正に立ち向かわず、善なるものを支持しなかった。それでも、そうだとしても、どこかに希望があると私は信じている。信じられないことばかり起こるこの世界で、善なる行動を、踏み躙られている人を守るための行動を起こす人が必ずいると信じている。希望はここにはないが、どこかにはある。